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|-|-|-|2014/07/26 Sat.|
河野典生逝去
『街の博物誌』(早川書房・文庫,1979) 2012年1月29日、嚥下性肺炎のため逝去。77歳。
1964年に「殺意という名の家畜」で日本推理作家協会賞。ハードボイルドやジャズ小説で知られ、著書に「明日こそ鳥は羽ばたく」など。[日本経済新聞,2012/03/06/2109]
収録作品それぞれに新井苑子のカラーイラストが寄せられ単行本『街の博物誌』『続・街の博物誌』は、それはもうすてきな本で宝物でした。SFに限らず題名がいつもかっこよかった。すばらしい幻想SFを残した作家に対して謹んで哀悼の意を表します。
親友・筒井康隆の哀悼の言葉が沁みました。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2012/03/08 Thu.|
内藤陳逝去
CD『MIDNIGHT PLUS ONE』 2011年12月28日、食道がんのため逝去。75歳。
62年、ストリップ劇場のコメディアン仲間の井波健さんや成美信さんと、お笑いトリオ「トリオ・ザ・パンチ」を結成。メンバーは入れ替わったが、独特のギャグで注目を集めた。
冒険小説やハードボイルド小説好きで知られ、81年から月刊プレイボーイ誌で書評を連載。同年「日本冒険小説協会」を設立し会長に就任した。愛情に裏打ちされた書評は熱狂的ファンを生み、著書「読まずに死ねるか!」はシリーズ化。一方、英国の作家、ギャビン・ライアルの小説から名付けたバー「深夜+1」を東京・新宿ゴールデン街で開いていた。[サンケイスポーツ,2011/12/31/0505]
いつも『このミステリーがすごい!』の「私のベスト6」でトリを飾っていた陳メのコメントが好きでした。おそらく闘病のため、2006年版での出場が最後になってしまいました。冒険小説というものはもちろん日本冒険小説協会より昔から存在していたわけだけれど、それをひとつのジャンルとして認識させてくれたただならぬ読み手、すぐれた扇動者に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/12/31 Sat.|
市川森一逝去
私が愛したウルトラセブン 2011年12月10日、肺がんのため逝去。70歳。
日大芸術学部を卒業。1966年に特撮テレビ番組「快獣ブースカ」でデビュー後、「ウルトラマン」シリーズも担当した。脱ホームドラマ・脱リアリズムを掲げ、「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」など人気作を次々と手掛ける。人間の聖と俗を浮かび上がらせた「淋しいのはお前だけじゃない」で第1回向田邦子賞。
NHK大河ドラマでは「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」を執筆、壮大なスケールの世界を描いた。映画では、山田太一さん原作の「異人たちとの夏」で第12回日本アカデミー賞最優秀脚本賞、「長崎ぶらぶら節」で第24回日本アカデミー賞優秀脚本賞。
日本放送作家協会会長を務め、"使い捨て"にされるシナリオの保存、管理に向け尽力。テレビのコメンテーターとしても活躍した。[東京新聞,2011/12/10]
印象に残るのは『ウルトラセブン』の諸作品。「V3から来た男」「北へ還れ!」「ひとりぼっちの地球人」「月世界の戦慄」「盗まれたウルトラ・アイ」といったタイトルをあげていくだけでグッとくるものがある。キリヤマとクラタの友情、フルハシの故郷への想い、そして、地球人あるいはウルトラセブンだけが特別な存在というわけではないという多様な価値観を認める姿勢が強く印象にのこっている。映画『異人たちとの夏』(1988)、テレビドラマ『私が愛したウルトラセブン』(NHK,1993)も思い出深い。人間も異人も宇宙人も幽霊もわけへだてしなかった脚本家に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/12/11 Sun.|
立川談志逝去
立川談志『古典落語特選1』2011年11月21日、喉頭がんのため逝去。75歳。
東京都出身。昭和27年、高校中退後、五代目柳家小さんに入門。早くから才気を表し、38年に真打ちとなり五代目立川談志を襲名。日本テレビ系番組「笑点」の企画者の一人で、毀誉褒貶はあったものの、江戸っ子風の威勢のよさと毒舌で人気落語家になった。
社会的発言を好み、46年には参議院選挙に出馬して当選。三木武夫内閣で沖縄開発政務次官に就任したが、問題発言によりわずか36日で辞任した。58年には弟子の真打ち昇進問題で、小さんと対立して落語協会を脱会、落語立川流を創設して家元となった。[産経新聞,2011/11/23/1554]
今年1月の一門会で「子別れ」を聴いたのが、立川談志に生で触れた最初で最後の機会となりまた。伝説としての立川談志しか知らなかったのですが、その偉大であることは家元として育てた弟子、志の輔、志らく、談春、談笑をみれば即座にわかる。風雲児、革命者、名手、毒舌、天才、破天荒、学究肌、吝嗇とさまざまに言われ慕われた家元に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(2)|2011/11/23 Wed.|
北杜夫逝去
どくとるマンボウ回想記2011年10月24日、腸閉塞のため逝去。84歳。
近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松本高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。
60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを出版して人気を博した。
同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、毎日出版文化賞を受けた。「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝で98年、大仏次郎賞を受けた。[読売新聞,2011/10/26/0301]
記憶もいささか曖昧だが、自分のこづかいで最初に買った文庫本は『船乗りクプクプの冒険』だった。そのタイトルは、それまで読んでいた少年少女向けの本とはちがう匂いがする小さな文庫本がぎっしり並んだ書店の棚のなかでも、特に目を惹くものでした。ほかにも、このかっこいい名前の作者によるそそるタイトルの本がたくさんあって、そこから『どくとるマンボウ航海記』『どくとるマンボウ昆虫記』、『怪盗ジバコ』に『あくびノオト』、『楡家の人びと』や『白きたおやかな峰』へと読みすすんだ。なかでも『航海記』は漠としたあこがれをもってくりかえし読み、なにはともあれ海外にいくときはワサビを忘れないようにしようと思ったものです。しばしば指摘されるその卓抜なユーモアもお気に入りで、大河長篇『楡家の人びと』のなかで、米国(ヨナクニと読むんだったかな)と名付けられた叔父が戦時中に難儀するエピソードが好きでした。地方大学への進学を考えたのも、アンチ巨人ファンとなったのも北杜夫の影響があったのだろう。躁鬱病というのもなんだか楽しそうにみえた。SFを読み始めたのは北杜夫を経験する前からだったけれど、北杜夫が日本SF黎明期からのファンであり、また書き手でもあったと知ったときはうれしかった。文学のおもしろさ、表現のおもしろさ、好きなものを好きであるということのおもしろさを十代の私に教えてくれた作家に対して謹んで哀悼の意を表します。大好きでした。どうもありがとう。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/10/26 Wed.|
スティーブ・ジョブズ逝去
カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』2011年10月5日、逝去。56歳。
1976年にアップルを共同創業し、パーソナルコンピュータ「Apple」や「マッキントッシュ」などを発表、同社を世界的な企業に押し上げたが、社内的な対立で85年に退社。86年に設立したピクサー・アニメーション・スタジオは、多くのヒット作を出して、世界屈指の映像制作会社となった。
97年、経営悪化で苦しむアップルの経営トップに復帰し、2000年には最高経営責任者(CEO)に就任した。復帰後は斬新なデザインのパソコン「iMac」を大ヒットさせ、携帯型デジタル音楽プレイヤー「iPod」で音楽事業をパソコンと並ぶ事業の柱に育てるなど、業績を急回復させた。
その後も、07年に発売したスマートフォン(多機能携帯)「iPhone」、10年のタブレット型情報端末「iPad」と、革新的な製品を次々と世界に送り出し、同社をパソコン大手から、デジタル家電やメディア配信事業を含むIT企業の雄へと変貌させた。11年4〜6月期決算では売上高と最終利益で過去最高を更新、アップルは株式時価総額で世界最大のIT企業となった。[読売新聞,2011/10/06/0856]
カリスマでした。いつも遠くから見ていました。Appleはずっとあこがれでした。はじめて買ったコンピュータMacintoshIIsiとともに過ごした日々はいまも心の奥で輝いている。とはいうもの同調圧力とか経済的事情とかいろいろあってApple道を歩み続けることはなかった。ジョブズのすべてを受け入れられるほど没入できなかったという部分もあったのだけれど。思いつきで言っているようにしか考えられない発言や行動もあったけれど、でも、結局は世界がそっちへ寄り添っていくかのように世の中は動いてきたのでした。
今のコンピュータ文化、そして、世界のあり方に善きものをもたらしてくれたカリスマに対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/10/06 Thu.|
前田武彦逝去
『マエタケのテレビ半生記』(2003)2011年8月5日、肺炎のため逝去。82歳。
1953年のNHKテレビ放送開始と同時に「こどもの時間」の脚本を執筆。「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などを手掛け、放送作家として青島幸男さんや永六輔さんと並ぶ活躍ぶりだった。一方、60年代からはタレント、司会者としてテレビに登場。歌番組「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)で芳村真理さんと共に司会を務め、「マエタケ」の愛称を全国に知らしめた。大橋巨泉さんと人気を二分し、「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」(日テレ)などを高視聴率番組に育てた。「笑点」(同)の司会、テーマ曲の作詞も担当した。
73年、参院補選で応援演説をした共産党の候補が当選した際、「夜のヒットスタジオ」のエンディングで万歳をしたのが問題になり、番組を降板。以降、約10年ほど各局の番組から姿を消した。本人は後年、「軽い気持ちで約束したことが大ごとになった」などと語っていた。
復帰後は俳優として映画「釣りバカ日誌」シリーズなどに出演、お天気キャスターも務めた。[毎日新聞,2011/08/05/1930]
『ゲバゲバ90分!』(1970〜1971)の印象が圧倒的に強く、そのあとが途切れていたのですが、そうですか、そのあとに干された時代があったんですね。ドラマ『想い出づくり』(TBS,1981)で森昌子の父親を演じたのらが印象に残っているが、それは失われた10年の後の姿だったんだ。ちなみに古手川祐子の父親が児玉清、田中裕子の父親が佐藤慶だったのだけれど、みんな鬼籍に入ってしまいました。日本のテレビが生みだした才人に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/08/05 Fri.|
小松左京逝去
小松左京マガジン第41巻(2011/04) 2011年7月26日、肺炎のため逝去。80歳。
京都大学文学部イタリア文学科在学中から作家の高橋和巳らと交流し、文学活動に参加。卒業後は業界紙記者、土木工事の現場監督、漫才の台本作家などさまざまな職業を経験した。昭和36年に『地には平和を』で「SFマガジン」の第1回コンテストで努力賞。SF作家としてデビューした。
空襲で焼け野原となった大阪城周辺の廃虚を舞台に、鉄を食料にする一族を描いた「日本アパッチ族」(昭和39年)のほか、「復活の日」(同)「果しなき流れの果に」(41年)など、人類と現代文明の未来を探る構想豊かな作品を次々と発表。日本でのSF小説を開拓する草分け的存在となった。
地殻変動で日本列島が水没し、日本民族は国土を失うという設定の「日本沈没」(48年)は広範な知識に裏づけられた巧みな空想力が話題を呼び、400万部の大ベストセラーに。日本推理作家協会賞を受賞したのをはじめ映画、テレビ・ラジオドラマ、劇画にもなった。また60年には「首都消失」で日本SF大賞を受賞した。[産経新聞,2011/07/28/1559]
喜寿の年に刊行された『小松左京自伝』に掲載された写真のなかの小さくなってしまった姿を目にして以降、覚悟はしていたけれど残念です。『果てしなき流れの果に』や『日本沈没』などの長篇で圧倒してきた印象が強いけれど、短篇にもすてきな作品がたくさんありました。つれづれに思い出せば、「お召し」「夜が明けたら」「お糸」「ヴォミーサ」など、なんと良質なSFばかりだろう。日本に大きなSFをもたらしてくれた巨星に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(2)|2011/07/28 Thu.|
ぴあ休刊
〈ぴあ〉2011/08/18(最終号)
さらば「ぴあ」の時代 首都圏版休刊
地域情報誌の代表格「ぴあ」(首都圏版)が、21日発売号を最後に休刊する。約40年にわたり、映画を中心に東京という巨大都市の雑多な文化をまるごとパッケージして発信してきた。[朝日新聞,2011/07/19/1207]
その昔、ぴあ派とシティロード派というのがあったそうな。〈シティロード〉(1972〜1993)はマニアックで賢そうなんだけれど、難しいことを言わずもてなしのよい〈ぴあ〉(1972〜2011)を贔屓にしていました。学生時代、夏休みに上京するとまず〈ぴあ〉を買って、ぴあ割のきく名画座をチェックしていました。就職・上京後は胸をはって毎号買っていたのだけれど、頁柱の「はみだしYouとPia」を読むのが主目的になっていたような気も。年1回のぴあテン、もあテンも楽しみだったな。
自分自身が読まなくなって久しいのだから、休刊も当然と受け入れてしまいます。でもやっぱり、及川正通の表紙イラストレーションを書店店頭で目にできなくなるのは寂しい。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/07/21 Thu.|
和田慎二逝去
和田慎二『超少女明日香』 2011年7月5日、虚血性心疾患のため逝去。61歳。
1971年、大学在学中に「別冊マーガレット」でデビュー。「超少女明日香」シリーズや「ピグマリオ」など少女漫画で活躍。テレビドラマ化、映画化もされた「スケバン刑事」は大ヒットした。現在は、「ミステリーボニータ」(秋田書店)で「傀儡師リン」を連載中だった。[毎日新聞,2011/07/06/1339]
1975年は、少女漫画にSFがもたらされた特別な年だった。手塚治虫や石森章太郎や藤子不二雄や松本零士がすでに多くの傑作をものにしていたが、1975年に新しい爆発が起きた。〈別冊少女コミック〉に竹宮恵子「ジルベスターの星から」、萩尾望都『11人いる!』、そして〈別冊マーガレット〉に和田慎二『超少女明日香』が登場。明日香は、超能力SFの新しいヒロインだった。いわゆる繊細なだけの少女漫画ではなく、少女漫画誌にダイナミックな風を呼びこむ作品を発表していた漫画家に対して謹んで哀悼の意を表します。
|悼む|comments(0)|trackbacks(0)|2011/07/07 Thu.|
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